【私の『学び合い』の間違い】
 私は間違っていた。そのことに数年たって気が付く。いや,気が付いたと思っている。
 その間違いに気が付くのは,2014年11月に,広島市立三入小学校で,西川 純 氏に出会う機会から始まった。
 ※この顛末については,別の機会に述べたい。
 自己分析してみると,私のゴールは,「みんなできるようになる。」がゴールだった。そのために,画期的な『学び合い』の方法に飛びついた。しかし,それは方法をまねたものであり,『学び合い』そのものではなかった。つまり,『学び合い』の心が分かっていなかったのだ。『学び合い』の心を持ち,人に語りかけ,共に求めていくことが必要なのだ。
 では,『学び合い』の心とは何か。『学び合い』の心=願い・思い だろうか。
私が語ること(out put)のできる『学び合い』の心とは,「全ての人ができるようになるというこの課題解決を通して,決してあきらめない仲間をつくる。」ことだ。とり会えず,今ひねり出せるのは,この文である。そのためのもっとも分かりやすいめあてが「一人も見捨てない。」の一文である。
 2019.2.24