【学校という場での学び】 2
 
 学校は法で規定されている。学習内容的には学習指導要領で規定されている。ここに示されている内容を身につけさせることが学校の大きな使命である。
 未来を見据えたとき、学習内容を全ての児童生徒が100%身に付けて、学校を卒業していくだろうか。
私はいつものこの点で悩んでいた。
 学校を終えるときに、学習指導要領の内容を全て身に付けているわけではない。単に聞いたり見たりやってみたことがある・・で、終えている。(全てを身に付けた人もいるだろうけれども)

 では、学校での学びとはいったい何なのだろうか。
 学習指導要領で示されてる全ての内容を身に付けさせることを全ての児童生徒にできない。これは26年間、学級担任をして、自分の力のなさを感じ、実感したことである。

 では、学校は何をするところか?
 ここでいつも考え悩んでいた。回答を見出すことができずにいた。これは自分の怠慢である。26年間も児童の前に立ち、学びを「させ続けた」のに・・である。回答を持つことができなかった。

 回答を見出すことができたのは、平成25年11月に上越教育大学 教職大学院教授西川純氏にお会いし,お話をお聴きしたことから始まる。そして、熊本大学 教育学部準教授苫野一徳氏の著書を手にし、目の前がさらに開ける。
 西川純氏は、教育の根幹となる学びの考え方を語られる。苫野氏は、「勉強するのは何のため」と、著作で明らかにされる。明確な考えを持てずにいた私は、身に様々なお知恵を詰めたいと、両氏のお話を漏らさず伺いたくなり、1年間の間に何度もお会いしに出かけた。そして、学校というものをどう考え、学校での教育をどのようにしていったらよいのかを自分の中に貯めていった。

 「学校は、多様な仲間を仲間と実感し、仲間と共に課題に対して回答を見出す力を育てる場である。」これが私が見出したひとつの回答だ。
 これを具現化する学びが『学び合い』である。『学び合い』の中に見出した力を伸ばしていく方法を感じることができた。
 先に述べておくが、「どのような学びを自らが行い、未来社会に向かって成長していくか。」「どのように成長していくか。」ということに、ひとつの回答として見出したとき、その方法として『学び合い』を見出したのであり、『学び合い』という学習方法が、知識・技能・思考力を付ける方法として探しだしたのではない。この考え方のベクトルは、実感することが難しいように感じているところである。このことについては、また後に述べたい。
 2019.2.10