鉄棒の学習は、小学校の体育科の中で通常取り組まれるものである。その中で、逆上がりができるようになるための学習を行うことがある。だいたい3年生辺りで行われることが多い。
では、計画された時間で逆上がりはみんなできるようになるだろうか。
簡単にできてしまう人がいる。時間の中でできるようになる人がいる。そして、時間の中でできなかった人がいる。 さぁ、評価だ。簡単にできた人はA、次はB、できなかった人はCだ。
果たしてできることを評価するための学習だったのか。できなかった人は、学習の中の何が足りなかったのだろうか。教師の仕掛けがよくなかったからできるようにならなかったのか。
「しょうがないなぁ・・・。でもいつかできるようになるよ。その取りかかりだったんだ。今できなくてもいいよ。」
この人は、いつかできるようになるだろうか。
いや、逆上がりができるようになる学びは何か別のことに結びついていないのか?いるのか?
4年生になっても同じだった。5年生でも。ましてや6年生になると体が大きくなり,さらに鉄棒は苦手になる場合がある。そうなると,「何とかこの時間が早く終わってくれないか。」と,願う。
では、中学校になったらできるか、さらに上の学校に行ったら?おとなになったら?
おとなになって、逆上がりができるかできないかなんて、職業にも日常の生活にも何も(ほとんど?)関係しない。だから、もうできなくっていいんだ。・・・・・
では、どうして小学校で鉄棒運動をするのだろうか。学習指導要領には、各教科の目標が示されており、各運動で取り組むことがさらに書かれている。鉄棒運動という具体的な運動の学習を通して身につける力が述べられている。つまり、逆上がりができるかできないかは二の次である。
そうはいっても学習指導要領に「・・その技を身に付けること。」と記してあるのだから、身に付けることも目標である。これらのことをどう考えればよいのだろうか。どう消化して学びに向かわせればよいのだろうか。
【例えば、円錐の展開図を描けること】現在の学習指導要領では削除されている内容。
「高さ10cmで、底面の直径が3cmの円錐の展開図を描くことができる」ようになる学習課題(私たちが小学生のころ、確か6年生だったか、このような課題があった。)は、全ての人ができるようになりおとなになっていく時に身に付け解決する課題だろうか。
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