私は昭和58年(1983年)4月広島市の小学校教員として任用された。
私の育ち,親の願い,様々なことを経て(この件についてはいずれかの機会に。),それなりに志を持ち、願って小学校教員となった。
それから学級担任として26年勤めた。その中でずっと心に引っかかっていたことがある。
ある学習を行うとき、できるようになる人と求めたいところまでできるようにならない人がいることである。
これをどうしたらよいのかと、ずっと思案してきた。
以来ずっと,自分の手立てを考え、ああでもないこうでもないと試行錯誤をしてきた。ある方の学びの会に参加し、考え方や手立てを見聞きした。ある方の本を読み、なるほどそうだと、やってみた。
26年間、ずっと満足する仕事をすることができなかった。今でも心に引っかかっている。ある目標に到達するために(しようと)学習の方法を考え、セッティングし、実施する。目標に到達する人もいれば到達しない人もいる。これではだめだったんだと補充の学習を追加する。練習の課題を増やしてみる。それでできるようになることもある。しかし、やっぱり目標に到達しないことがままある。
私は、「これはしょうがないことなんだ。」と回答を出し、自己解決しようとした。もっとひどい言い方(自分が情けないが)をすれば、「しょうがない。今は,できるようにならないんだ。そういうときなんだ」と考えた。自分のせいではなく,人のせいにしようとした。
その裏で、「この学習の意味は何だったんだろう。」と思い、悩んだ。考えた。
また、このように考えた。「学習内容が、今、身に付かなくてもやったことは将来活かされ、分かるようになるだろう。学んだことは別のことに活かされるだろう。」根拠のない回答を自分に言い聞かせた。これにも裏で「この考えは根拠がない。」と感じていた。
「今、分からなくてもできなくてもいいんだ。」この回答に根拠を見出すことができないで学級担任26年間を過ごした。400人近い卒業生を中学校へ送り出した。本当に共に過ごした彼彼女たちに申し訳ない。 |